あるいは

まだマッチングアプリで消耗しています。

 

もろもろあり年金生活者になった。人生は不思議だ、全くの偶然からみなし公務員になったと思ったらうつ病になり、寛解したり再発したり(結果寛解はしてなかったということだが)で仕事をしたりやめたり、そういったもろもろが積み重なっている。

公立の施設はおおよそ無料でいくことができる、それだけで仕方無しに久々に美術館を巡っている。民芸の100年展とクリスチャン・マークレー展が同じタイミングでやっているのは、天啓か、というくらい美術史的な意味が重なる2つだが、後者の謎の若者需要、エクスペリメンタル・ミュージックなんて面白いと思って聞いているのは日本においては老人か、欧米人くらいのものだが、彼らはクリスチャン・マークレーに何を見出しているのだろうか。今回展示されているのはビデオアートとコラージュがメインで、エクスペリメンタルな雰囲気がない、というのは確かにあるかもしれないが、ビデオアートも完全にインダストリアル的な音楽の一表現であって、決してポピュラーではない、のはポップの概念を喪失した自分でもわかる。

そんな美術史のインサイダー取引という悪の側面の象徴のような2つの企画展と同時に行われている久保田成子展が、実に美術史という学問そのもののような企画展で、立体化された論文を読んでいるようだった。久保田成子自体はペクナムジュンやフルクサスなどと交錯しつつ、自身にはなんの才能もなかった(デュシャンへの傾倒がそれを際立ている)人物であると思うが、丁寧な分析、時系列で紐解く展示、これこそ学芸員の仕事の面白さだよな、みたいな感動がある。ある意味こちらのほうがインサイダーであるはずだが。

無料で美術館にいくことが出来ても図録などは当たり前だが定価で買わねばならず、美術館に行く=図録を買う、みたいなサーキットが出来上がっている身体にはなかなか厳しい。明日も図録のセールを回るため、美術館を2つはしごするわけだが、なんのための幸せなのかわからない。図録なんて読まないし。あとから手に入れようとするとめんどくさい、それだけの理由で買っているのだから、悲しいものだ。

外出=飲酒をしてもいい、というルールで生活しているのも、報酬のため無駄に外出をしているようで物悲しくなる。酒はなんだろうと美味い。

そういえばついこの間試聴室の大喜利に回答者として出演した。三沢さんから指名されたので仕方なく、というかそもそも出る前提でこの日来てね、と言われたのだが。大喜利はやってみると普段飲み会で話しているような無駄なことの延長という気がして、大滑りもしたのだが、滑る具合もわかってしまったので、恐怖とかも無くなってしまった。次回以降も指名されれば出る感じでいたい、なんだかんだ緊張するので出たくはないが。